KATEのバンコクガイド管理人ブログ

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タイ、後継者難で消えゆくシルク産業 かつてはシリキット王妃が保護

世界中からタイを訪れる旅行者の土産物で、常に人気上位にランキングされるのが地元特産品の「タイシルク」。色とりどりのデザインに、通気性や保水性が優れ、肌触りも良く、高級品として旅行者の関心を引く。だが、かつては東北部イサーン地方の貧しい農村に伝わる副次産品だったことはあまり知られていない。国の特産品にまで存在感を高めたのは、米国人実業家の登場や、故プミポン前国王の妻シリキット王妃の手厚い保護があった。「クイーンズ・シルク」とも呼ばれるようになった伝統産業が今、後継者難から存続の危機に直面している。

◆日本から技術者

イサーン地方には桑の木が多く、農家では古くから蚕を育てて、絹布を織っていた。糸紡ぎから機織り、染色まで全て天然素材の完全手作業。こうした素朴な手織りの絹織物は「マットミー」と呼ばれ、母から娘に、さらに女孫へと伝えられ、技術の伝承が行われていた。マットは紡ぐ、くくるという意味で、ミーは細い糸を表している。

近代化を進めた国王ラーマ5世(在位1868~1910年)が国力を高めるために、輸出品として注目したのがマットミーだった。国王は生糸の生産で進んでいた日本から技術者を呼び寄せ、日本種との掛け合わせによる品種改良や技術者の養成に努めた。養蚕学校は拡大改組され、農業省学校、現在の国立カセサート大学の前身となった。ナコーンラーチャシーマー県やブリーラム県、スリン県などが主要な産地として発展した。

ところが、日本人技術者の帰国や価格競争に対する不慣れなどから、日本式の合理的・高生産性の産業体制はタイには十分に根付かず、しばらくは農村の伝統的副次産業に立ち戻ることになる。再び脚光を浴びるようになったのは、第二次世界大戦時にタイに赴任した米国軍人で、後に実業家に転じたジム・トンプソン氏の登場がきかっけだ。

トンプソン氏はタイシルクの高い品質を見抜き、事業化に着手。それまでの天然素材を改め、化学染料を使ったデザイン性の高い商品に改めていった。完成品は米国本土で営業を展開、ブロードウェー・ミュージカル「王様と私」の衣装を受注するなど実績を重ねていった。

こうして「ジム・トンプソン」ブランドのタイシルクは世界に知られる一方、商業化に乗らなかった伝統的な担い手たちは、イサーン地方で細々と自らの文化を守り続けた。

◆産業保護に基金

こうした貧しい農村の蚕農家を救おうと立ち上がったのが、シリキット王妃だった。1970年代、王妃はイサーン地方を視察した際に、伝統のマットミーの美しさと現状を知る。バンコクに戻って76年に設立したのが、貧しい農家の人々の現金収入を確保し、タイの伝統的シルク産業を保護する「サポート基金」だった。この基金により、多くの農村女性が仕事を得て、機織りの技術を紡いだ。一方、都会の消費者たちは王室の保護という権威を背後に、マットミーの高い品質を再認識し、流通ルートも次第に整備されていった。

東北部の玄関口ナコーンラーチャシーマー県には、こうした伝統的な絹織物産業を守ってきた村が今も残る。パクトンチャイ・シルク村も絹織物でかつて栄えたが、高齢化や後継者不足から現在ではわずかに数戸の工場を残すのみ。そのうちの一つ、ボウさん(50)が経営する機織り場を訪ねた。

「トタン、トタン」と軽快な音を立ててタイシルクを織っていくボウさん。この道30年のベテランで、その高い技術には寸分の狂いもない。息子と娘を設けたが、2人とも会社員となって村を出て行った。「私の代で、この仕事は終わりね」と今では1人で、機織を守っている。

寂しそうに語るボウさんだが、話題がシリキット王妃になると目を輝かせて饒舌(じょうぜつ)になった。「王妃はこの村を救ってくれた。子供のころ、村はとても貧しくて、母は朝から晩まで懸命に働いていた。それがあったから今がある」

バンコク首都圏の平均的所得から3割以上も低いとされるイサーン地方。そこに残る伝統産業に、タイの深い歴史を見た思いがした。
(Sankei BIZ 2018年12月24日 05時50分)

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